尼崎ダービーでの復活を期す茅原。若手時代を支えた恩人への思いを吐露した
尼崎ダービーでの復活を期す茅原。若手時代を支えた恩人への思いを吐露した

 2006年11月11日に茅原悠紀は地元児島でデビューした。あの松井繁が誕生した同じ月日にレーサー茅原は生まれた。

 そして、そのたった2年後にはG1戦線への登場を果たした。ルーキー当時から、彼はエリート街道に乗りまくっていた。

 しかし、ボートレース界はシビアな勝負の世界である。目覚ましく頭角を現しまくる新鋭の存在を歓迎しないライバルは幾人もいた。

 「デビューした頃から、自分はいろんな意味で特に目立っちゃっていましたからね。そりゃあ、よく思わない先輩もいましたよ。結構、嫌みを言われたり、しかも当時の自分はまだまだ若かったですからね。そんな先輩たちに反発もしたし、我慢できないこともたくさんありましたよ(懐かしそうにしみじみと)。実際に、もう面倒になってこのまま選手を辞めてしまえと思ったこともありました。そんな時でした。若い頃からずっと僕の味方をしてくれる先輩がいました。同じ岡山支部の天野誠さんです」

◆「もうね、天野さんは恩人ですよ」

 天野は1971年生まれで、現在55歳になった。1995年に選手デビューを果たし、すでにキャリアは30年を越えた。今や大ベテランの一人である。

 しかし、これまで積み上げた長きキャリアの中で、天野は特に目立った成績を残すことはできなかった。

 A級を維持し続けることもなければ、大きな記念レースに参戦することもほぼないまま、現在に至っている。

 でも、記録した成績以上に茅原にとっての天野は大きな、大きな存在であり続けた。

 「もうね、天野さんは恩人ですよ。ここまでの自分があるのは、天野さんのお陰と言っても全然大げさじゃないです。まだデビューしたての頃、さっきも話したように、僕は周囲から目を付けられていました。でも、そんな時にいつも自分を励ましてくれたり、支えてくれたのが天野さんなんですよ!この関係は今になってもずっと変わりません。今でも僕は天野さんには甘えていますし、すごく頼りにもしているんです。本当の恩人ですよね。選手としてだけでなく、人間としてもです」

 そんな天野について今、茅原はひどく思い悩んでいるという。

 「そうなんですよ。今、天野さんは勝率が4点台に届かなくて、成績が落ち込んでいるんです。この前も天野さんは言っていました。『もう、選手を続けていくことは難しいかもしれない』って。はあ~。自分としてはいつまでも同じ選手同士でいたい。でも、進退は天野さん自身が決めることですからね。そんな天野さんにこの前、聞いたんです。『天野さんはまだ走りたいですか?戦いたいですか?仕事が嫌いになっちゃいましたか?』。天野さんはしばらく考えて、まだこの仕事が好きだと言ってくれました。だったら、天野さんができる限り、やり切ればいいのではと伝えさせてもらいました。若かった頃、天野さんが声を掛けて励ましてくれたように、今は僕が天野さんに声を掛けさせてもらいました。もう、本当に少しでも長くこの仕事を続けて欲しいなあ」

◆田中信一郎の写真でフォーム研究

 天野は茅原を精神的に支え続けていた。

 では、プロレーサーとしての手本や先生は誰が務めたのだろう。

 茅原は、真っ先に田中信一郎の名を挙げた。

 「技術面では、まず信一郎さんですね。自分が訓練生だった頃、やまと学校(現・ボートレーサー養成所)の教室に信一郎さんがグランプリを勝った時の写真が飾ってありました。豪快にターンを駆け抜けている時のショットでした。そのフォームをよく見て、参考にして研究していました。へえ~体の向きはこうなのかとか、肘の位置はここなんだみたいに自分なりに解釈して、勉強させて頂きました。ウィリーモンキーは池田浩二さんをメッチャ参考にしました。舟を浮かせる角度とか、とにかく学ぶことが多かったです。池田さんのモンキーに憧れて、自転車でウィリーの練習してマネしていたぐらいですからね(笑)。他にも松井繁さんの仕事への姿勢とか、たくさんいろいろな人から学んで今の自分があります。今は僕の乗り方をマネしている若手がたくさんいる?まあ、そう思ってもらえ続けるように、これからも頑張らないと!ですよね!」

 さあ、2026年尼崎ダービー開幕はもう目の前に迫っている。27日からの激闘6デイズで、茅原は業界最強のキレッキレターンを幾度連発してくれるだろうか。ファンだけでなく、同じ選手、ライバルたちもカヤハラブランドのスーパーターンに注目している。

(淡路 哲雄)