1987年のセブンイレブン、いや7月11日に誕生した茅原悠紀は今、39歳になった。もう間もなく40歳の大台を迎える時期に差し掛かっている。
現役バリバリの元気な中年カヤ兄さんは、まるで現役青年、いやいやまるで永遠の明るく元気みなぎる少年のような屈託なきあどけない表情でこう言った。
「年を取っていくと、この年齢になると、周りのひとたちから衰えが始まるってよく聞くんですが、でもね、自分にはそれがま~ったくな~い(笑)。個人的に衰えたところなんてなにひとつ一個もないっすわ~。ボートに乗ることもこれまでとま~ったく変わったところはないっすわ!ぜ~んぜん、これまでと同じですわ!一緒ですわ!はははっ(独特のカヤハラ高笑いを響かせながら)」
◆「同期の誰にも負けないなって、そう思いました」
今から30年も昔。ユーキ少年はまだ幼い小学生だった。「僕の家は決して裕福じゃなかったんです。だって、寒い冬もエアコンを使えないぐらいでしたね。冬なんてマジでメッチャ寒かったっす(苦笑)。そんな日常で、僕は小さい頃からずっとおっかない父親から将来はボートレーサーになれ!って言われ続けていたんです。でも、その時はまだ小学生だったのかなあ。自分は別にボート選手になりたいとは思っていませんでした。あれは小学時代の授業参観の日だったのかな。将来の目標を書く授業だったんですが、僕はあまりに父が怖くて、仕方なく将来の夢を”ボートレーサーになりたい”とそう書いたんです(笑)」
でも、年齢をひとつずつ重ねるたびに、父の願いが響いて来た。いつしか、父のその思いは茅原本人のものとなっていった。
誰に指示されたわけじゃない。中学、高校生になる頃には「僕はレーサーになる。ボートの選手になる!」と多感な悠紀ボーイの気持ちは、ここに大きく揺れ動いた
そして、見事に選手試験を受けて通過して男は合格した。「いやあ、5回っすよ、5回目(笑)。何度もボート選手試験に落ちました。なんすかね、もう本当に。マジで落ちまくっていました(さらに笑)。まあ、それでもどうにか選手試験には合格しましたが、その時に思いました。ああこりゃあ、いけるなって。だって、僕はずっと自宅の近くでアマチュアボートを川でやっていましたからね!養成所に入った時、同期たちが幼稚園児みたいなら、自分は中学生みたいでしたあ~。ああ、こりゃあ、同期の誰にも負けないなって、そう思いました」
そして、職業レーサーとなった。早い時期からたった数年で一気に頭角を現して、瞬く間にSG戦線にその名を連ねるようになった。
◆この業界で新しいリーダーになる
記者は2012年に初めてボートレース担当となった。そう、茅原がSGレギュラーメンバーに定着しようとしていた、ちょうど同じ時期である。
そんな時だった。初めてに近いSGエントリーを叶えた茅原に声を掛ける記者はほとんどいなかった。大会制覇を目指すトップブランドたちにマスコミ陣は当然のように寄り添った。
それでも、記者は行った。初めてに近いSG開催で当時はまるで通用しなかった茅原の元へ。
「いやあ、こんな僕のところに来てくれてありがとうございまっす!でも、必ず数年後に、僕を先物買いしてくれたことにお返しはしますんで!僕のところに来てくれたことが間違っていないことを証明してやりますんで!」
そしてSGエリアに足を踏み込み出した茅原はこう咆哮した。
「今の自分はただのSGに初めて行きだして、ボッコボコにされている一人の若手です。でも、これから必ず、僕はやります。この業界を変えてみせます。業界のあしき上下関係、記者やマスコミとの関係。もう、何もかも全部を僕が変えてやりますわ!後輩たちみんながうまく行くように、ファンに楽しい情報が届くように僕がやったりますんでぜひ見ていて下さい!僕はこの業界で新しいリーダーになるつもりで今、取り組んでいますんで!」
当時、全く何の実績もない茅原はそう絶叫していた。
「はははっ、そんなこと思い切り言ってましたね(笑)。確かにあの頃の僕はそんなことを言っていましたねえ~(笑)。でも、何でなんだろうなあ、当時から”ナゾの自信”が僕にはあったんですかね!いやあ、懐かしいっすわ。はははっ。何の自信があったんですかね~(ひとり大笑いしながら)」
今ではSGに欠かせない存在となった茅原。尼崎ダービーはドリーム5号艇からスタートする。
(淡路 哲雄)